2008年3月23日日曜日

スタッフパーティー

3月22日はホテルのスタッフパーティー。日頃の働きを称えてか、1,000人近くいるスタッフは誰でも参加できる催しものらしく、数日前から色んな人に踊るの?踊るの?とは聞かれてました。というのが私が踊る姿を見たことがある人たちは1,000人中多くても20人ぐらいのはずだから。

パーティーで踊ることはもちろん事前にお願いされていたのだけど、もちろん当日まで何がどうなっているかは知らされていない・・・(どうせ慣れっこだけど)。ただ、今回一つだけ知っていたのはケーキの中から登場!ということ。

会場は海の近くの大きなテント。外から見ると少しだけサーカスを思い出す。中は天井が高くやけに広い。下見に行った際私が見た踊るべきスペースはおそらく前方に設置されているダンスフロア。

当日、時間と簡単な説明を受けて向かった会場。控え場所には気付くとおっきな2段のチョコレートケーキが(もちろん偽者)。そしてそのケーキ、車輪と引っ張る紐がついている。なるほど、これで引っ張られるわけね、と見て思う。デコレーション用の周りのクリームも偽者かなと思い触ったらこれが大失敗。クリームは本物で手がべとべとになる始末。

ケーキには「入り口」があって、そこから入って暗いケーキの中で待機(変な話ですが)。 そのケーキの中、案外ちゃんとしていて、きちんと布で覆われて心地よくされてました。今までこの中で待機した人たちは一体何人いるのか、と、どうでも良いことを考えつつ。

中に入るときも、入ってからも、ケーキの中から登場する自分を想像してしまい、おかしくて笑ってしまう。登場間近、デコレーション用にこれまた周りに花火を散らしながらそのケーキを誰かがステージまで引っ張っていくという設定。花火を用意しながら誰かが、「この花火、メイド・イン・タイワン」と言う度に「私日本人」といちいち説明。

取り決めとしては、運んだ人がケーキをノックしたら私が紙で出来ているケーキの天上を突き破って上半身を出すというサプライズ。ただ心配事が一つ。紙で出来ているとはあれ、天上が上手く突き破られるか。そこで両手にナイフを持って突き破れば確実だろうとナイフのアイディアを事前に聞いたところ「大丈夫だからナイフは要らない」、と・・・。確かになぜベリーダンサーが両手にナイフをもってケーキの中から登場するか?そんなことは考えても誰もわからないのだから不可解な疑問はわざわざ作る必要はなし・・・。

もちろん、中に入る前に色々確認したつもりではあったはず。でも一つ重要なことを忘れてました。ケーキの中の暗闇で、私は一体どっちを向いておけば良かったかということ。動き出したケーキ、気が付いても遅すぎる。ごろごろ運ばれる間、冷静になり進行方向を体で確認。ベリーダンサー、何でも出来ないと勤まらないわ、なんて考える私。出発地点から終点までの位置関係から、おおよそどっち向けば人を向くかって言うのが分かって良かった、とホッとしたその瞬間、止まったと思ったケーキを誰かが意味もなく回す!困った!結局どっちがどっちだか分からなくなった時にケーキをコンコンとノックする音が。イチかバチか、とっさに人の声が聞こえる方向を向き、ケーキを突き破って出たところ、許容範囲でした(笑)。

その後がすごい。ちょっと間抜けな話ですが突き破って顔を見せた後はやっぱり入った「入り口」から出るしかないんです。でもケーキから脱出後、フロアぎりぎりには人だかりが。歓声もすごいわでやってるほうもかなり楽しい思いをさせていただきました。そして皆手には携帯。写真なんだか映像なんだか知りませんが、携帯を持ち始めると皆のリアクションは万国共通。

もちろん知ってる人も見かけたし、そうじゃない人も大勢いたけれど、ここで感じたのは、アルジェリア人は皆素直なんじゃないかなということ。人を引っ張リ出して踊ったりもしたし、投げキッスもした(私のは本当に投げる・笑)。見かければいつも挨拶する子に、日頃レストランではウエイターをやってる子、オフィスで働いている人やセキュリティーの人、全ての人が一体となった印象を受けました。

最後はせっかくあるのだからと高台のステージに上がってドラムソロを始めようものなら、今度はその人だかりが前進してきてどんなアイドル歌手のコンサートかと思うぐらい(もしくはKhaledか?)、でも正体は私、日本人ベリーダンサー。

後でレストランの仕事を始める前に、キーボードのタリックが、すごかったよ、アルジェリアのスターだね、と。それは大げさだと思うけれど、私のダンスで人を元気に出来れば嬉しい。もうちょっと欲を言うと鳥肌が立つほどの感動を与えたい。Khaledより有名になれるかな?(笑)

後日ある人曰く、面白い体験をしたね、だって普通ケーキの中って入れないよ、だって。・・・確かに。

写真は後日手に入ればアップします。

2008年3月19日水曜日

愛しのレバノン

レバノンが・・・恋しい。

ごめん。
そう、とりあえず日本よりレバノンの方が恋しい。

アルジェリアに来てから、そろそろ2ヶ月。

今回は経由地として、数日間しか滞在出来なかったレバノンが、あの国の人々が、あのハチャメチャさが・・・恋しい。

去年のおおよそを過ごしたあの国での体験は、想像を絶するそれはそれは笑いと呆れ、非常識に飛んだもの。もちろん、これらを面白いと思えるのは、一緒にそのときを過ごした仲間がいたからである故。ずっと一人でこれらのことを体験していたら滅入っていたかも。
大好きだけど、あそこの国民は、・・・おかしい。

やっぱり情熱家ゆえか、悲しくて悲しくて、早朝5時、家の玄関前(正確にはエージェントオフィスの入り口)で転げまわりながら大声で泣いたこと←これホント。大体悲しくても良識を持った人は涙は堪えられるところまで堪えるでしょ。もう玄関前なんだから中に入ってから泣けばいいものを。当時は我慢し切れなかった、多分半端ない量のお酒が入ってた自分。そして思う存分泣きはらした後家の中に入ると何故か爽快な気分になった自分。そして後々近所から騒音の苦情がなくて良かったと思った自分。

後日友人にこのことを話したらレバノン人みたい、って。レバノン人も・・・やるな。

ある夏の暑い日、プールに出かけた私ともう一人の日本人のお友達。彼女もまたレバノンに長期滞在していたことがある人なのですが、帰り際、ハタと止まった車には3人の男の子たち。歩いている私たちを見て、どこまで行くの?乗せてってあげるよ、との事。目的地を告げると(普通はこういうのは無視するべきかもしれないが)自分たちも同じ目的地だ!って。嘘をおっしゃい。

何を思ったかそのお友達、じゃあ乗っちゃおうか、とヒッチハイクを促す。まあ確かにここでタクシーを捕まえるのは大変そう。よくよく見ると彼らたち、さっきのプールでじろじろこちらを見ていた子達ではないですか。偶然を装い乗せてってあげるよって、いかにもレバノン人らしい。

結局一人の子が私の友人に気があったらしく、仲間がそれを応援しようって魂胆だったのですが、じゃあ残った二人がしょうがない、私に君のことが気に入ったよ・・・ってなんでそうなるかな。だから都合よくそこで完結付けようとしないでおくれ。彼と彼女は連絡先を交換してたみたいだけど、その後どうなったかは知りません。

後で聞いた話によると、彼女、「マリコさん(私)が一緒だから知らない人の車でも乗っても大丈夫だろうと思ってー」・・・って私は一体・・・何者?確かにその時点までで私が体験してきたことは想像を絶する面白おかしいことばかりではあったし、見知らぬ人の車で(言っとくが一人ではないです、いや、一、二度あったな)家まで送ってもらったことは何度かありました・・・。でも私がいるから大丈夫って・・・。確かに確かに日本で言うような悪い人はレバノンにはいない気もしますが・・・良い子の皆さんは決して真似しないで下さい。

ミュージッククリップから流れ出る甘いラブソングのビデオクリップに自分を照らし合わせたりして夢見心地だった時。友達曰く、こういうのがレバノン人+私たちの感覚を麻痺させてしまっている。なるほど納得。そういうことか・・・と、えらく痛感。

お友達(こちらは日本人ではありません)が多少「お付き合い」していたレバノン人の彼の話。その日私たちは彼女と共にレバノン料理晩餐のお食事に招待されました。でもここで彼は同席した他の男性と彼女が親しく話をしているのを見て(いや、ほんとに話してただけです)何を思ったかドラマの1シーンを繰り広げ始めました。嫉妬からきているのか、まずはナイフを片手にお皿をガツガツたたく(これ、サスペンス劇場)。

そしてレストランを後にする私たちに、送っていこうと思い自分の車を手配したのかと思いきや(高級そうないい車です)、運転席からまだ外にいる私たちの中の彼女にいきなり怒鳴り散らし始める、そして私たちにも忘れず一声「Sorry guys」、と言い残し、思い切りアクセルを踏み鳴らし消えてった彼(これ、心痛む失恋シーン)。おそらく車には良くないだろうなと思う運転で、そっち行っても何もないでしょって方向に行きました。

そして何時間か後、レストランで同席した人たちと一緒にクラブに行った私たちを追ってか、そこしか行くところがなかったのか、前に述べた彼が同じクラブに登場しました。彼はあの街で多分1位2位を争うshow off(見せびらかし屋)。ベイルートで彼のドラマクイーンさを知っている人も多いのでは?そしてそのクラブでのこと。彼女を見つけた彼は彼女に耳打ちして「I love you 」って言ったらしい(これ、感動の愛の場面)。

申し訳ないがおかしくてしょうがない。だってこれ全部絶対本心ではない。彼は、自分が作り上げるドラマの中で暮らしている・・・。ちなみに彼、クラブに行くと必ずシャンパンを開けてクラブ中に自分の名前が響き渡ることに喜びを感じているよう・・・。

これからもその彼の話は「伝説」として伝え受け継がれる(?)。

この彼は例外的要素を持ち合わせているとは思うけれど、まあこんな国民が勢ぞろいした国での出来事は半端なものではとどまらないのです。場合によっては良くも悪くも取れるでしょうが、私自身、何故か憎めなくて好きかも。

そんな人たちと関わることがないここでの私。心を乱すものがないということは平穏な日々を暮らせているということ。決して悪いことでは・・・ない。

が、ということは私の踊りにも平穏さが反映してくるということ?いやいや。そうではなくあって欲しい。ある生徒さん曰く、私にとっての男性は踊りの肥やしにするべし、だそう。そうか(薄々気付いてはいたんだけど)。単純な私はやけに納得。いちいち気にかけてたら時間がもったいない。とりあえず踊りに集中だ。

ゆっくり海でも眺めてここにいる間は自分を保養させよう。

2008年3月17日月曜日

Khaled

アルジェリア発のライ音楽(Rai)の王様 Khaledが、昨夜レストランに!(数日前ですが)


1セット目はいなかった彼、2セット目が始まる前、控え室に入った私に誰かが教えてくれました。

というのも、前もって聞いてなければ、私はおそらくそのアルジェリアのスターを見落としていたであろうから・・・。でも彼、そのままです。

Cheb Khaled
男性に使われるYoungという意味のCheb、現在彼はKhaledとして知られています。もう若くないから? 1960年アルジェリア、オーラン生まれ。
ちなみにDJ. Khaledとは関係ないと思います。これかなり余談。

14歳にして初のシングル"Trigue Lycée" ("Road to High School")をレコーディング、その後西洋の楽器やスタジオ技術を起用し1980年代からのライ音楽の発展に貢献している。アルジェリア国家がライ音楽をオフィシャルにアルジェリアの代表的な音楽としたことで、愛やアルコール、ドラッグなど、イスラム原理主義者たちのタブーを題材として歌うライ音楽家のKhaledは、原理主義者からの脅迫を受けて1986年にフランスに移住して活動せざるを得ない結果となった。

彼の音楽はまた女性解放と社会的平等さを歌ったものでもある。

有名な代表作としては、ある男性のAicha(アイシャという女性の名前)への愛の嘆きを歌った「Aicha」。
Aichaは彼が彼女への愛のため、くれようとする全てのものを要らないという、それらの宝物は彼が自分のために取っておくべきだと。たとえ金で出来ていても檻は檻。彼女はもっと価値がある、そしてそれは平等な権利とリスペクト、本物の愛からくるものだ、と。
http://www.youtube.com/watch?v=iIyyPsqRweE

「Didi」 (音も映像も残念ながら質の良いものが見つかりませんでした)
こちらはインドでも大ヒットしたよう。
http://www.youtube.com/watch?v=rm8tr82TEgU&feature=related

これはMilk&Honeyの「Didi」リメイクバージョン

女性デュオ。どっちかがアルジェリア出身でどっちかがドイツ人と聞きましたが必然的に金髪のほうがドイツ人だろうな・・。

(ベリーダンス取り入れるならもうちょっと頑張って欲しい・・・)

http://www.youtube.com/watch?v=MqWYDlVCM8Q&feature=related

個人的に好きな曲「Henna」
http://www.youtube.com/watch?v=hVIJdh6W348

実は私、Cheb Khaledはずーいぶん前から知っていたくせに、彼がアルジェリア人だってことをここに来るまで知らなかった不届きモノなのです。ベリーダンスを始めた当初の先生がアフリカ色の濃いものが好きだったらしく(果たしてKhaledがアフリカ色を前面に出しているかというと疑問がありますが)、ベリーダンスとうたっている彼女のクラスでは何故かCheb Khaledの音楽が流れていた記憶がします。

今思うと、だから私は最初の2年は無駄にした、と否応なしにと思ってしまう・・・。

その先生も面白い人で好きでしたが、その時はあまり上達してなかったんじゃないかな、と振り返り思い出す。

2008年3月12日水曜日

寂しい?

今夜、散歩に出かけた。

といってもホテルの敷地内の海岸を横に見ながら歩く、それだけの散歩。

仕事が終わり、控え室でいつものようにキーボードのタリックがCDを持って来てくれるのを待っていたら「疲れたの?」って。いつもは座ってないのに今日は座ってたから、だって。よく観察してるね、私自身気付かなかったよ。

疲れたわけじゃないけど、なんか寂しいのかも。お母さん?とタリック。うーん、お母さんではないけど(ごめんよ母さん)別にこれといって何とか誰でもないんだよね。そんな私にタリックは、散歩して外の空気を吸ってみれば?って提案してくれた(もちろんこの辺はボディーランゲージ)。タリックは、本当に優しい人。同じエージェントから他のダンサーが何人もここに派遣されているけれど、皆口を揃えて彼は信頼できる人、という。私もそれは同意します。

少し肌寒いけれど、遠くの空、地平線すれすれに見えるオレンジ色の三日月。波の音を聞き、広く開かれた空を見上げる。ずっと見つめると今まで暗かった空が、見えなかったたくさんの星が輝きだす。思いがけず出くわした満天の星空に、しみじみと人間のちっぽけさを思い知らされる。この広い空に、広い海、何万光年(そんなに遠くない?)もの無数の星。こんなに広大なものの中に暮らす私たち。

人間の一生なんて一瞬の長さでしかないんだろうな。そんな中で一日、踊る時間なんて無に等しいものかもしれない。でも私にとってはかけがえのない輝きの時間(輝ける時間ではありません、輝きの時間なんです)。悔いのない様、日々大切に暮らしていきます。

星と自分、無理やり関係付けないでいいって・・・。ちなみに光年とは天文学で使用される距離の単位で、光が一年間に進む距離。なので、年とついているが時間の単位でないそう・・・だから上記に関係付けた話は全てチャラ。ちょっと賢くなった?と思ったのは私だけ?

ポスト仕事。

あ、流れ星見っけ。

2008年3月8日土曜日

女性の日

本日3月8日は女性の日。

アルジェリアでは、女性は仕事や学校がお休みもしくは半日(この辺曖昧)だけなのです。

1週間ほど前、マネージャーに3月8日は女性の日のスペシャルイベントがあるから追加で踊ってね、とは言われていたものの、その日にならないと何時に私が必要か分からないという。

まあいつものことではあるのだが・・・。

10時は回っていたとは思われる。目覚まし代わりに電話が鳴る。

「寝てた?」

「いえ・・・」

職業上寝る時間帯が人とずれてるわけだし、別に寝てたことを隠す必要もないのだけれど、何故か罪悪感。早寝早起きは健康のもと、と言われても、ねぇ。

女性の日の追加分は5:30PMから20分お願いね。

了解。

はじめて上がった3階のBanquet Room。広さも構造も分からぬまま連れられた超満員のその部屋の扉をそっと開いて「ステージはポーディアムだから」、ってマネージャー・・・。座っている大勢の女性客のちょうど目の高さ、キャットウォークが出来るぐらいの長いポーディアム。しかも絨毯張り。何故か私はステージが高ければ高いほど落ちるのではないかといつも心配してしまうそんなダンサー・・・。去年のいつぞや、レバノンで。プールの中央、こちら側からあちら側にかけてのブリッジステージ(しかも超不安定)で踊れと言われ、これで水に落ちたらバカうけだろうな、とは思いつつも進んで落ちるほど芸達者ではなかった自分を思い出す。

女性の皆様前にして、登場するなり黄色い声援が。嬉しいじゃあないの。

熱い声援と熱い視線がこれまた私を熱くする。単純な私は期待されればされるほど張り切ってしまうのです。レストランではやっても意味のないターキッシュドロップ&フロアワークはここでやらなきゃいつやるの。ここのところ膝の調子がおかしかったこともありクラブでも控えていたターキッシュドロップは見事皆様のお気に召されたよう。

アルジェリア人の女性たちの、それはそれは喜ぶ顔が見られたことが、今日の一番の収穫。

レストランでも、本日2セット目の最後はまたまたナンシー。女性たちが何人も一緒に踊ってくれました。

イスラム教のアルジェリア。どんな思いで、こういう日を作ったのでしょうか。ここでもやはり女性は女性。世の中女性がいなければ成り立たないでしょ!

今日の写真を私が持っているわけもないのですが、女性の日、この写真のシルバーの衣装を使いました。

これは先日レストランでお客おじさんが撮った写真を彼がわざわざ親切に下さいました。

どこの方かは分かりませんが、ちょっと変わったおじさんです。

2008年3月5日水曜日

石油王との結婚

ひそかに私は今一番石油王との結婚に近い日本人女性ではないかと思ったりしている。 またアホなことを・・・。

先日(と言ってもずいぶん前)、白いトーブ(ThobeもしくはThawb)に身をまとった、あの赤白チェックのスカーフ(Shumagh)をかぶった2人連れを見かけた。果たして彼らが石油王だかどうかは、未知の世界。

ウェイターが私に小さく合図を送る。こっちにも来て踊れ、と。

それまで快調に踊っていたと思われる自分、この2人を見かけるなり急に緊張してしまい、普段ならミスしないようなビートをはずす。あれ?おかしい。2人を目前にシミーがうまくいかない。あれ?足の付け根がおかしい。あれ、動かない?止まりそう、下手すると倒れる?というぐらいの勢いだ。幸いスローモーションで横に倒れていくことはなかったものの、あの緊張ぶりには我ながら驚き、同時に悔しさが沸き起こった。

何が起きたか?何故か私に植え付けられてしまった「こういう人たちがアジア人にオリエンタルを踊れるわけがない、というイメージが付きまとってしまっている」、という概念(私も先入観を持ちすぎかもと、後々反省)から、それを覆そうとアジア人代表、ここはいいところを魅せなければ、と自分にかなりのプレッシャーを与えてしまったよう。いつもそうだが、とにかく色んなことを一人で背負い込む癖があるらしい。

ある日日本の少子化が問題として取り上げられている番組でも見たのだろう。分かった、じゃあ私5人は産む。と言った私に、いいよそんな少子化を一人で背負い込まなくても、とあっさり身内。とりあえず相手探そうよ、って。ごもっともです。

しかもその日のその1セット目に使用したプログラムの曲集はいまいち盛り上がりに欠けてしまったのかな、と思い始め、ここはサービス、急遽用意していた2セット目を変更。カリージがいるのだから、ここはカリージの曲が入ったプログラムを持ってきた。

カリージ/ハリージ(正確にはカとハの間の発音)とはKhaleejiもしくはKhalijiと表する。その他khaleijiと書いたりもするようだが、この辺り、アラビア語が英語表記されるとあいまいに取り扱われるのであまり当てにしないこと。湾岸の意味を持ち、主に湾岸の人、音楽、文化や方言、ペルシャ湾岸に関係したもの一般を全般的にカリージと呼ぶ。

こちらでは、カリージの踊りを心得ておくのはマストなこと。特有のリズムに特有の動き、カリージの曲が掛かるとカリージは大盛り上がり、一緒に踊りだすなんてことはしょっちゅうです。

それを見越して先ほどの失態は挽回すべく、カリージ入りのプログラムを用意して再登場したはものの拍子抜け。さっきの2人組み、もういないんだもの。あーあ、私のせいかなと思ってもしょうがない。ノリのいいカリージの曲を聴いたら自分でも楽しくなり生き生きと踊ることが出来たよう。もちろん観ている人を楽しませるのはエンターテイナーとしてしなければいけないことではありますが、やっぱり自分自身が楽しんで踊ることは大切だと改めて思い直したそんな日。

ちなみに、カリージ音楽で人気のある歌手はHussein Al Jasmi(こちらもまたスペルがあいまいでHussainという場合も)。Al Sharkiという曲は私も皆も大好きです。ただ、カリージ音楽、つまらないものは本当につまらない時もあります。

Hussein Al Jasmi

そうそう、それから、どうせなら石油王じゃなくて、シェイクの方がいいかも。アイワッ!

2008年3月3日月曜日

Fairuz / Fairouz

フェイルーズ、(またはファイルーズ)と読みます。

レバノンでの私のトレーナーの名は、イヤッド。
イヤッドも、彼自身プロダンサーである。

そんな彼に会えると楽しみにしていた1月末のベイルートでの滞在、惜しくも会えず終い・・・
なぜかって?彼は彼のダンスグループと共に、Fairuzのツアーでダマスカスに行っていたのです。

レバノン人のFairuz はアラブの歌姫。

Our(ってレバニーズのことね) Ambassador to the Stars とも称される彼女の名、Fairuz とはアラビア語で「トルコ石」の意味。1935年に生まれた彼女はおとなしい幼少期を過ごしたが、10代からその美しい歌声はさることながら、アラビアン音楽も西洋音楽も歌える柔軟性の才能を認められ、1960年代には "First Lady of Lebanese singing" (Halim el Roumi) と呼ばれるようになる。

そんな彼女の音楽は、彼女がアルジェリアから訪れた当時の大統領のプライベートコンサートで歌うことを拒否したため、レバノン政府の要請でラジオでの放送を6ヶ月間にわたり禁止されたそう。彼女がプライベートコンサートで歌わなかった理由は、王様であっても大統領であっても、特定の人一人(One Individual)には歌わない、自分の歌は people (人々)に歌うものである、というスタンスがあったから。

アラブ圏ではもちろん、オリエンタルダンス(ベリーダンス)をしている人なら彼女のことは知っているはず(違う?)。1970年代、彼女は国際的にも有名になるものの、1975年から1990年にかけて起きたレバノンの内戦中、海外に移り住むことはなかったという。けれども、内戦中の不条理な殺し合いをするおろかな行為に対して、一度は美しく繁栄をなしていた自国を破壊する国民や外国人に対したメッセージを込めて、国内でその歌声を披露することもまたなかったという(1978年に東と西に分けられたベイルートの町の双方で"Petra"というオペラだけは公演したそう)。そして、それがフェイルーズ。

今回のシリア公演については、様々な見解があるよう。それはもちろん政治的な意味合いも含まれるであろうし、なぜ今シリア?という考え方も。あれこれ調べだしたらニューストッピックスからどんどん入り込み、誰にも説明しきれないレバノンの複雑な宗教、政治その他もろもろの情勢や話題でどんどん頭が痛くなり・・・結局特にこれといった話も出来ないままこのエントリーは終わりにすることに。インターネットって終わりがない・・・。

写真は、レバノンにて。イヤッドの故郷で撮ったもの。