2008年5月31日土曜日

誤解されてた私

今更気付いたのですが、たくさんの方が私の仕事形態を誤解しているよう。

基本、ベリーダンサーは単身で踊ります。

私は、ベリーダンサー。

だから、私も単身で踊ってます。

単身で派遣先に出向き、単身で生活し、単身で問題を解決します(問題はどこに行っても山のようにあることが多い。しかも信じられない起こり得ないような問題が・・・)。もちろん一人で解決しきれないときにはエージェントに助けを求めますが。

時々、事情を飲み込めていなかった日本の方に、何人で踊っているの?と聞かれるのですが、もちろん、一人、と答えます。

どこの国の人たちと踊ってるの?と聞かれるのですが、だから一人なんだってば、と。

じゃあその一人一人の人たちの出身地やダンスレベルは?と聞かれるのですが、だから、一人なんだってば。

要するに、ベリーダンサーはホテルに一人。アウトレット(ホテル内のレストランやクラブ、飲食店等)がたくさんあったとしても、基本中東、北アフリカ等、こちらのホテルではホテルにつき、お抱えベリーダンサーは一人なのです。そしてアウトレットがたくさんある場合は、その一人をあちこちで踊らせます(ベリーダンスが必要なところは)。

たまに、時と場合(季節的なものもありますが)によっては、ベリーダンサーを二人派遣させる要請を出すホテルもあるそう。でもだからといって二人が同時に踊ることはほとんど無く、こういう場合は、アウトレットがたくさんあってベリーダンサー一人では回しきれないということが主な理由なので、アウトレットが10あったとすれば二人で5つずつアウトレットを担当するってことに(そしておおよそアウトレットは交互に担当するのではと思われる)。

だから私も、ここシェラトンホテル内の、レストランと、クラブで、単身で踊ります。

だから、分かっていただけますでしょうか。グループで踊ってるのであれば、多分アジア人だろうが火星人だろうがなんら問題はなく、取り立ててどうこう言われることもないはず。だってユニットであればスパイスガールズじゃないですが(古い・・・)色んな人種が混ざっているほうが見ているほうも楽しいでしょうから。

同じエージェントのダンサーみんながそうですが、単身の身、一応、苦労してるんです。

2008年5月28日水曜日

衣装

回転ドアを通り、荷物を検査用にX線のベルトに乗せ、セキュリティーゲートをくぐると、そこは開けたホテルのロビー。中央には1階に続く螺旋階段が二手に分かれて広がる。

その外側、左側は通路、右側にはレセプション。

その先、螺旋階段の直裏辺りには、ラウンジが広がる。

先日、1001 Nuitsで踊り終えた私に、スタッフの一人が控え室にいる私に言う。衣装のことで私に話したい人がいる、と。

結局アルジェリア人のその人と話をしたのは1週間後(なぜ?)。多少英語が話せる女性。その場に居合わせた男性はおそらく彼女の旦那さんであろう。旦那さんはアメリカ人かな、と思わせる発音だ。彼女が英語が出来るのはそのせいなのだろう、と勝手な憶測を立てる。

その彼女、以前ベリーダンサーをやっていて、自分が持っている衣装を売りたいと言う。もちろん私はそのものを見なければ買うか買わないかなんて決められない、と言い、それなら、と携帯番号を交換した。

彼女曰く、じゃあ明日持ってくるから11時PM頃電話するね。

そして翌日。

電話は・・・

ない。

分かった分かった、当てにした私が悪かった。

ここの国の人たちは悪気なく約束をすっぽかす。おそらく、すっぽかしたという認識さえないのだろう。もしくは約束は約束に値しない・・・。

じゃあ次の日ぐらいには電話があるかな、と思いつつ過ごしたその日も、連絡は・・・ない。

結局彼女から次のアプローチがあったのは1週間後。

今来てるんだけど、ロビーに来れる?ってあんたねぇ。何でそう都合良く、とは思いつつも、タイミング的にはばっちりだったので外出から帰ったその足でロビーに出向く私。

ここでは見せられないから、と女性化粧室に手を引っ張られる。袋の中から取り出されたのは、黒の衣装一着。

話では衣装は3つと聞いていたのだけど、他の2つは?と問う。

一番良いやつだから、とりあえず今日はこれだけを持ってきたの。ねえどう?

ちょうど黒の衣装を欲しいとは思っていたところ。悪くはない。

ただここは交渉スキルの見せどころ。いいとか悪いとか言う前に、まずは値段の交渉。どっちにしろ手直しはしなきゃいけないのだから、いくらまでなら手間隙掛けても使いたいと思うかどうか。

アルジェリアの通貨はディナール(DZD)。1ディナール1.6円ほど。硬貨は、一番小さいものが1ディナール、5ディナール、10ディナールと続く。100ディナール出せば輸入品の良質チョコレート菓子が2個ほど買える。大きな買い物はやはりドルだのユーロだので話をすることが多い。ここは地理的にヨーロッパに近いので、大体皆ユーロで話をする。が、私のペイは何故かアメリカドル・・・。

ちなみにレバノンではレバニーズポンドがあるのだけれど、アメリカドルも普通に流通していて、レートも一定の$1ドル=LL1,500(レバニーズポンド)。レートが変わらないところがまた曖昧で素晴らしい。なので大きなお金で買い物した際のおつりは、レバニーズポンドとアメリカドルが混ざっていたりするのも日常的な事。

300ユーロ(5万円弱)という彼女。500ユーロ(約8万円)で買ったのよ。

嘘でしょ。これを5万で売ろうとするその精神が分からない。

どう考えてもちょっとそれはやりすぎ。それでは、と私。デザインは取り立てて珍しくもないし、年季が入っててそこまでは出せない、しかも色々手直しが必要だよね、と言う。お互いここは売りたい者と、買いたい者。慎重に?話を進める。

結局最終的な値段は決まらないまま、サイズが合うかどうかをとりあえず部屋で試着するという事で衣装を預かりその場を後にした。

翌日連絡が来ることになってはいたのに、もちろん連絡は来るはずもなく、そのうち日々刻々と過ぎてゆく。なんたるいい加減さ。内心、これなら何回かショーで使ってやっぱり要らないわ、ってことだって出来ちゃうぞ(もちろんそんなことしませんが)、しかも私が衣装を持って去る可能性だってないことはない(これもしませんがね)、と思ったりしてみる。

そして2週間ほど経ってしまったある日、例の彼女から電話が鳴る。

今日残りの2着の衣装を持ってきたの、見てみない?

私もいい加減怒るべきなのか否や。でも怒っても何の特にもならないのでやめておく。大体こんないい加減なやり取りは想定内のはずなのだから。

ちょうど仕事が終わっていた時間帯、ロビーに出向く私。小さなスーツケースから取り出した残りの衣装2つを簡単に見せてくれる。私は次の1ヶ月内には仕事の関係でドバイに行くから、欲しいかどうかを今この場で決めて欲しいという彼女。ああ、旦那さんの仕事?と問う私に彼女、私結婚してないわよ。なんだ、この前一緒にいた人が旦那さんなのかと思ってた。でも、何の仕事?とは聞かず。

この2つの衣装は最初の黒いものに比べて多少見劣りはするものの、手直しすれば問題なく使える。そう、私が目的としていたのは、使えそうなものであれば、3ついっぺんに買い取って全部をまとめて値段交渉するということだったはず。そしてそれを思い出す。じゃあ3つ買い取るとして、1つ150ドル(約1万5千円)の計算でどう?

という提案に彼女、二つ返事でOKを出す。こんな簡単に。しまった。それならもっときちんと交渉すれば良かった、と思うときにはもう時既に遅し。

まあいいか。

端数の金額をディナールで渡すことにした私は、持っていたお金を両替しにレセプションまで行く。

そこでレセプションで働いてる友達が私に妙なことを言う。

ねえ、一緒にいたあの人にお金とか大事なものとか預けちゃダメだよ。

別に何も預けてないけど、何で?彼女のこと知ってるの?

彼女は売春婦で信用が置けないから、と言う。

はーーーーーーーー。そうなの?だってさっき仕事でドバイに行くって。言ってからハッと気付く。確かに売春婦はドバイでもin demand?でもなんでそんなこと知ってんのさ?

そのレセプションの友達の男の子は、欧米人の男性がレセプションの前を横切ると、あの人はお客さんの一人、と言う。別の男性が横切ると今度はまた小声であの人も、と言う。

知ーりーたーくーねー。

ほら、あの人も。通り過ぎるそのおじさんににっこり笑って挨拶しつつも、彼もビッグなお客様だよ、と彼。

ってあんた、教えんでいい!

話はどんどん盛り上がり(彼の中だけで・・・)、要らん情報を流してくれる。ラウンジの方向を指差して、あのラウンジの一角に一人で座っている女性がいあれば、それ系の人だという。

やーめーろー。全く。聞いてないことをベラベラと。

って言うよりそれ個人情報めちゃくちゃ開示してるじゃないか。いけませんよホテルの職員がそんな。

結局3つの衣装を総額450ドルで入手。お互い手を振ってその場を後にした。

その後もちょくちょく、いや、週末になると毎回のようにレストランとクラブに出入りする彼女。もちろんもう顔見知り。お互い名前だって知っている。そのうち友達も連れて現れるように。クラブで踊るときには端の方だけれどこちらをじっと見ている。うれしいんだかやりずらいんだか・・・。ファンなのか、仲間なのか・・・。

この一連の衣装購入から早2ヶ月ほど、未だに、彼女はいる。ドバイはどうしたのよドバイは。

そんな訳で色んなジャンルの友達が出来つつある今日この頃・・・。

2008年5月16日金曜日

別れ

別れは、突然やってくる・・・ものもあれば、前もって分かってるお別れもある。

ここで言う週の始まりは、土曜日。ウィークエンドとは、水曜日の夜辺りから始まり、木曜日と金曜日をさし、一般的に言う休日は金曜日。というのは、ある意味アルジェリアは本物(?)イスラム教徒の国だから。もちろん一週間のうち金曜日が休日のイスラム教国は他にもたくさんありますけれど(というより本来イスラム教国なら金曜日がおやすみのところの方が多いでしょうが)。

例えば、イスラム教が国教のアラブ首長国連邦では、休日は諸外国とのビジネスのやり取り上都合の良い日曜日。トルコもイスラム教徒が多数を占めるイスラム教国であっても一週間のうちの休日は日曜日。インドネシアだってイスラム教国でもおやすみは日曜日。

ということで、毎晩私が踊るこのシェラトンホテル内にある、アルジェリア料理のレストランとは他に、週末(水曜日と木曜日-これを説明したかった)踊る1001 Nuitsというナイトクラブがあるのです。そこは、ダンスとは関係なく毎晩バンドが生演奏をしているのですが・・・。

このバンド、ブルガリア人の男女4人で結成されているのですが、写真に見ると一見稀ないでたちをしていてそれなりに存在感のある人たち。主によく知られているカバー曲を演奏する彼ら、私がシェラトンで踊り始めるとほぼ同時期にアルジェリア入りしたのですが、実はこのバンド、演奏は素晴らしいのだけれど、ボーカルがあまり上手くなく・・・遠くから聞こえる歌声に、あれ?今日は素人をステージに上げてカラオケ大会でもしてるのか?と思ったこともあったほど。けれどもエンターテイメントを求めて集まってくる観客を、今までそれなりに盛り上げていたのかも。

小さくて見えませんが、左側、彼らです。

週末の私の仕事形態の日課としては、レストランで踊る2セットが終わると、一度部屋に戻り、衣装を換えてすぐに1001 Nuitsに移動。裏口から入り、バーの裏の控え室で待機するところ、今日もいつものようにその部屋に入った私の目にはいつもその時間ステージで演奏をしているであろうバンドのメンバーが一人。

ん?どうしたの?

今夜旅立つんだ。

えーーーー!?明日かと思った(って私の勘違いもどうかと思いますが、それ以前に1週間が終わる前に契約が終わるっていうところがよく分かりません)。

そんな彼らが今晩旅立つ。

これから君の踊りを見て空港に向かうよ、と。

そうなんだ。

自分の出番が終わり、再び控え室に戻る私の後を追ってやってきたそのメンバー、どうやら目を真っ赤にしている。お別れの挨拶をして、その場を後にするそのメンバー。

そのタイミングで部屋に入ってきたスタッフの子も目を真っ赤にしている(ちなみに私は泣いちゃませんが・・)。彼らが抱擁し合い、最後になるであろうお別れの挨拶を交わしているのを見てる間に、なんだかやっぱり寂しくなってしまいました。やっぱりどんなに短くても、毎日一緒に働いている人たちが明日から急にいなくなってしまうとなればやっぱりもの悲しいもの。

去っていったメンバーと、目を赤くしたまま、せわしなく次の用事を済ませてまた出て行ったスタッフの背中が消えたその部屋で、呆然と立ち尽くす私。

次に入ってきたスタッフに、やっぱり寂しくなるね、と声を掛ける。

そのスタッフ、今度は That's life. と小さく微笑んで、そんな言葉を発する。

1001 Nuitsからのいつもの帰り道、ガラス張りの窓越しに雨で少し濡れた地面に目をやりながら、ちょっと悲しくなった、そんな夜でした。

これ、まだ泣いてないそのメンバー。ちなみに彼だけは帰国後すぐ次の契約先のロンドンに向かうそう。

2008年5月14日水曜日

逆境

「逆境」

とは、逆手に取るものである。

・・・と、私の辞書にはある。

というのも私、ベリーダンサーとして、それはそれは色々に悔しい思いをしてきているのです。 具体的な話は伏せますがね(笑)。

私。

日本国生まれ。

黄色人種。

黒髪。

茶色い目。

東南アジアからハワイまで、どこに行っても現地人だと間違えられることが多いので、どちらかというとそっち系(どっち?)の顔立ちをしているのかも知れないけれど、れっきとしたなんちゃって日本人なのです。

さて、まずこっちの人(中東、湾岸諸国の人)からしてみると、日本人でベリーダンサーなんてあり得ない。

そう、そこが問題。

日本では近年とても人気のあるベリーダンス。まだまだベリーダンスコミュニティーは小さいかもしれないけれど、とても面白味のある世界。昨年からはベリーダンスの雑誌まで出版され始めているほどなのだけど、そんなこと、こっちの人にとっては知ったこっちゃない・・・。

そして極めつけは、オリエンタル(ベリーダンス)はアラブ人にしか踊れない、と思っている人多し。ですので、アラブ人じゃないほかの人種がオリエンタルを上手に踊ると、彼らはとても驚く。

そして極めつけの極めつけは、ではそのオリエンタルを踊れるアラブ以外人(造語)がきわめてアラブ人に似通った人であると、とてつもなく好まれるということ。もしくはそうならずとも欧米人の血筋だと喜ばれるように私には思えて仕方がない。

中東、湾岸諸国を牛耳るベリーダンサー大手のエージェンシーに所属したはいいものの、実は中々仕事に在りつけるのが困難だったりもするのです。それもそのはず、こちらの人々はアジア人が踊るベリーダンスなんて興味がなかったりするのだから。いや、アジア人に興味がない?どう頑張ってもアラブ人には見せかけられないアジア人ってだけで既にものすごいハンディ。

だからどれだけアラブ音楽に理解があっても、踊れても、一緒に口ずさんで歌っても中々それを受け入れてくれるところがなかったりもするもの。たとえ送ったPVを見たホテルのマネージャーが踊りは気に入ってくれても客に受けるかどうか分からないアジア人を雇うよりも(レバノン人じゃないところが変な話ですが)既に間違いがないであろうブラジル人を雇う方が魅力的だったりするのです。

今でこそ多数のブラジル人ダンサーが私のエージェントから派遣されて湾岸諸国で活躍してはいるけれど、彼女たちが自分たちの名声を築くまでにどれほどの時間がかかったことか(聞いてないので分かりませんが)。もちろんそれは彼女たちの実力が伴っているからだと確信してはいますが。確かにブラジル人、見とれてしまうすごいダンサーは山といる!

例えば、ロシアにも、それはそれは上手なベリーダンサーがたくさんいるのをご存知ですか?ある人曰く「それは他にすることがなくて一日12時間練習してるからよ」・・・なんて言ってましたが何時間練習してるかはまた別の話で、上手いことに変わりはない。そんな彼女たちもある意味もっと悲惨な立場にいるかもしれないと、思うこともあるのです。というのはどこに行っても彼女たちは娼婦扱いにされたりしてしまうから。これって私自信の偏見かもしれませんが、そう、こっちの人たちは私たちに輪を掛けて偏見を持っていたりもするのです。(この辺りは、事実多少話しに聞いたことを語っていますが、この辺りのお話に不快感を抱いてしまったら、大変申し訳ないです)

レバノンのエージェンシーに所属した話をした時、とある知人が言いました。「あら、レバノンではダンサーがそんなに不足しているのかしら」って。いやいや、そうじゃない。決してそうではない(と、思いたい)。本場の人をも魅了する選りすぐりの人たちを出身地構わず集めてるんです(・・・とも、思いたい)。だから、それなりにプライドを持って踊り続けるのもいいことだと信じて止まない・・・。

突拍子もないアジア人だからこそ目立とうではないか。その「奇妙さ」を利用して意表をつく。踊れるアジア人を知らしめようではないか(半ばやけになってる?)。

しつこいようですが、「逆境」とは、思う存分遊びこなして逆手に取るものである。いや、そうあるべきものである。・・・違う?きっとそうに違いない(少し苦しく自分を説得)。

その逆境、今回見事に逆手に取った?と思われる(・・・だから、そう思いたい)。というのが当初2月から期間3ヶ月で始めた契約が、1ヶ月延び、そして更に3ヶ月、今年のラマダンまで延びたから。

本日5月14日、要するに今までアルジェ・シェラトンで踊ってきた期間(3ヵ月半)と全く同じ期間、継続してここで踊り続けます。

ちなみに今年のラマダンは9月4日ごろから(曖昧)。契約終了日は9月2日。取り急ぎ?お知らせまで(笑)。

2008年5月7日水曜日

ロザナ

彼女は、アイスランド人。
(アイルランドではない)

アイスランド人の彼女は、私の特別な友達。

そしてその特別な友達ももちろんベリーダンサー。

言っておきますが上記は全て同じ人物、ロザナ。

ロザナと私。

彼女が一緒じゃなかったら私のレバノンの印象は違ったものだったかもしれない、たくさんの秘密も、楽しみも冒険も悩みも分かち合った、そんな大切なダンサー友達。

そんな彼女に始めて会ったのは2006年夏のベイルート。夏には会話もままならないままお互いベイルートを離れた同士、でもやっぱり運命なのだろうか、2006年11月、私は彼女に再会している。 当初私が持った彼女の印象はとても大人しく、一見控えめな感じ・・・だった・・・が、それは翌年ことごとく覆される。説明不可能なほどワイルドになったその翌年は、彼女なしでは語れない。

そしてそのきっかけは私たちが所属するエージェント。翌年には同時期にベイルート入りし、同じ部屋をシェアするという、今ではもう切っても切れない関係?に。彼女はとってもオープンで、当たり前ではあるべきだけれど、全ての面で私をリスペクトしてくれた人。女の子同士だからが故一緒にいてこんなにも楽しいと思えたのは、おそらく彼女が始めてだといっても過言ではないかも知れない、そんな友達。色んな人が出入りし、色んなダンサーに会う中で、偽りのない関係を築けた本当の友達。職業上いやな事も色々大ありな世界なのですから。

去年のレバノンも、実は不安定な時期が続いていたのは確か。そんな中レバノンに召集された私たち。事情がよく分かっていない外国で、不安はもちろん付きものだけど、不安な面持ち一杯で、外に出るにもためらいのあったロザナが、一言私に聞いたこと「ここの人たち、怖くない?」、と(そんな感じのことだったと記憶している・・)。

そんな彼女に私、

皆おなじ人間だよ。家族もいれば友達だって恋人だっている。うれしい気持ちだって悲しい気持ちだって持ち合わせた、おんなじ人間なんだよ。

と言ったことで彼女も少しは安心したよう。そして肝心の私は、なるほど我ながら良いことを言ったな、とひそかに思う。そして実際2人、後付で分かったことは、レバノン人は恐ろしいほどライフを楽しむ人たちだと・・・。

とにかく、数え切れないほどのハチャメチャな経験をレバノンで共にしたロザナ。

そんな彼女と連絡が途絶えて数ヶ月。

メールを書いても返事は来ない。

どこの国にいるのかも分からないから、電話番号だって、知らない・・・。

一体彼女はいづこやら、と思った矢先、もらった電話。その時の彼女の契約先のホテルではインターネット接続がうまくいかずずっとネットから遠ざかった生活をしていたとこのこと。久々に話す機会に恵まれた切っても切れない関係の2人、延々と花を咲かせたおしゃべりは、気付けば1時間半は経っていたと思われる。そして先月までのそんな契約を終えた彼女の次のデスティネーションはドバイのホテル。

そろそろドバイに到着して、Day1が始まった頃でしょうか。

Rosana inti ya helwa!

2008年5月5日月曜日

カスバの女

前日、ホテルの友達のマディナが私に声を掛ける。

「明日用事ある?」

「いや、別にないよ。」

「じゃあ11時ごろ電話するね。アルジェに行くかもしれないから。」

出かける機会があればほぼ毎回イエスという私。
彼女の休みが月曜日と火曜日なのは知っている。

それなら、と早起き(?)をして朝食を済ませた私は、携帯に目をやる。
11時。
11時半。
12時。
・・・鳴らない。

こちらの人は約束を約束として考えない性質があるらしい。それはアルジェリア人だけではなくレバノン人も同様(もしくはより悪いかも)なのだから。

まあいいや。当てにする私のほうが悪かった。過去に何度もそんな経験がある私はもうあまり気にしない。起こることは起こるし、起こらないことは起こらない。ただそれだけのこと。我ながら大人になった(?)と思う今日この頃。特に悪い意味はないのだけれど、こういう国のこういう国民を相手にじたばたしても何も始まらないのはレバノンで嫌というほど学んだ私。

要するに今日はないんだな、と判断。
・・・すると12時15分。知らない番号から着信あり。
出てみるとマディナ。
お母さんが迎えに行くから5分で出ておいて、と言っている。ってあなたもうちょっと時間頂戴よ。

私なりに急いで10分。ホテルの入り口に行ってみるが、そこにお母様の姿は・・・ない。
しょうがないので待ってみること10分。そこにやってきたルノーを運転するお母さん。
おお、上出来。今回の待ち時間はそんなに長くない(笑)。いつものようにローカル語とフランス語をハチャメチャに混ぜた挨拶を交わし車に乗り込む私。

家で待機していたマディナと彼女のおばさんをピックアップしてアルジェめがけ高速をかっ飛ばすお母さん。この時点で私、どこに行くのかも分かっていない。

なんだか狭い路地をぐるぐる行くうちにマーケットらしい通りに出くわす。だからカスバの道路は狭くて嫌なのよね、とマディナ母。カスバ?そうか、今日はカスバに来たのね。これが、あのカスバ。

以前、マディナはおじさんがカスバに住んでいるから今度連れて行ってあげるね、とは言ってくれたものの本当に連れて行ってくれるとは何とも感激である。
世界遺産にも登録されているアルジェのカスバとは・・・

「本来の意味でのカスバとは、オスマン帝国領下の16世紀において、アルジェに建てられた城塞のこと  である。この城塞と海岸線と起伏のある地形に囲まれた一帯で人口が増加し、アルジェの旧市街が形成された。そして時代が下ると、この旧市街自体のことも「カスバ」と呼ばれるようになったのである。カスバには宮殿やモスクは残っているが、植民地時代の残滓は大部分が姿を消している。

カスバの魅力は、高低差118mにも及ぶ起伏に富んだ地形そのものと、そこを縫うようにして伸びる、在りし日の謎と神秘に満ちたアルジェへいざなう曲がりくねった細い路地、そしてそこに建てられた家の外観や内部の特色などによって構成されている。アルジェの家は家々に囲まれた泉のある四角い中庭に通じているのが特徴的である。

カスバの高いところは急勾配になっているので、路地のほとんどが階段状になっている。専門家たちは、何世紀にも渡って互に支えあうように、そしてもつれ合うようにして建っている家々が織りなす建築上の奇観が、この急勾配の土地の上に作り上げられてきたことに驚嘆の色を隠さない。

本来の中心部は美しいもので、かつてはムーア人都市アル=ジャザイル(アルジェのアラビア語名称)に、「アルジェ=ラ=ブランシュ」(白き都アルジェ)のあだ名をもたらした。しかし、現在のカスバは崩壊の危機に直面している。海から、あるいはテラスからカスバを眺めれば、まだ十分に美しいものである。しかし、実際に路地を歩いてみれば、その悲痛なさまが明らかである。構造上、ある家が崩れると、それと折り重なっている家々もドミノ倒しのように倒壊の危機にさらされるのである。」

面倒なので、上記はWikipediaを使ってまたそのまま引用させていただきました。以下、URLです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%90

アルジェの街中は、だいたいどこも路上駐車。そしてその路上駐車を仕切るお兄ちゃんが道のいたるところで車に指示を出す。空きはない?というマディナ母にお兄ちゃん、あそこが空いてるよ、と指を差す。アルジェリアで走っている車はほぼ全てマニュアル車。坂道の多いこの町での運転はさぞかし大変なのではと思うのだが、住んでる人たちにとってはもう慣れたもの。・・・と思いきや、バックで縦列駐車をするマディナ母、指示をするお兄ちゃん、ヤーラ、ヤーラ(・・と言っていると思われる。ちなみにyallaとはアラビア語でlet's goの意味)、ガシャン。OK!・・・ってOK!じゃないでしょ、OK!じゃ。よく見かけます、こういう光景。

地元の、しかもカスバの市場。今日も面白いものをいくつか発見。
シャネルのマークがいたるところに入っているアバヤ。ベルサーチのマークがデザインとしてなされているアバヤ。グッチのアバヤ。そう、これらはもちろん全て偽者。こりゃあ面白い、と写真を撮ろうとバカな質問。撮ってもいいですか?答えはダメー。日本人なんだからいーじゃーん。と言ってみるがダメ。理由は?写真に撮って日本でデザインを真似されたら困る、って。・・・真似、しないよ・・・だいたいアバヤなんて作っても売れない・・・。今度写真を撮るときは、言わずに撮ろうと心に決めた私。そして今度「ベルサーチの」アバヤを買おうかな、とひそかに思ったりもしてみる。
ちなみにアバヤとは、イスラム国家の女性(国にも文化にもよるとは思いますが)たちが外出する際体の線を見せないように上から羽織る羽織もの。日本では売れない、と書いてハタと思う。ベリーダンスをする人の人口が増えているのであればアバヤが売れるようになるのも時間の問題・・・。衣装の輸入と平行して考えてみるのも悪くないかも、と上で言ったことは取り下げます。アバヤの込み入った話は今度のエントリーで。

マディナ母が吟味している赤ちゃん用の毛布。可愛いのだけれどケースにはよく見ると「Mode in Korea」と書いてある。モード・イン・コリアって何だ?韓国での流儀?おかしい。やっぱりおかしい。

買い物後、マディナのおじさんの家に向かうべく、カスバの街中を入っていく。

狭い段々の路地。古びた石畳。
上を見上げると、窓からぶら下がる洗濯物。あちらからこちらに引っ張られている電線。
悪ガキそうな男の子たち。
薄暗い、小さな入り口。50センチはあるであろう階段の1段。木があったり、タイルであったり。
ところどころ差してくる日差し。全てが継ぎ接ぎのように思われる、それでいて一体化した建物。いや、その継ぎ接ぎが折り重なって出来た街全体。訪ねたお宅は最上階(別名ペントハウス?笑)の一角。
おじさんは仕事でいないけれど、おばさんと、7歳の男の子、5歳の女の子が、その部屋にいた。お茶を出してくれたり、その間のやり取りを見ていると、薄々気が付いてはいたけれど、私のホテルの部屋よりも狭いそのスペースに家族4人、暮らしていることを悟る。他には小さなキッチンだけ。そこでご飯を食べれば、寝起きもする。テレビも置いてあれば、冷蔵庫もある。子供用のオモチャなんて、何一つない。何とも不思議な気分に陥ったけれど、子供たちの屈託のない笑顔を見たら、こういうのもいいのかもしれない、と、思った。
ちなみに、私は存じなかったのだけれど、「カスバの女」という歌があるらしい。

キム・ヨンジャさんが歌ってるバージョン

エト邦枝さんが歌ってるバージョン

帰り道、ラッシュと重なってしまった時間帯。マディナ母、数メートル行っては止まってしまう車の流れに毎回サイドブレーキをひいて坂道発進。隣の車と競り合って、絶対、譲らない(笑)。強し、マディナ母。

ちょっと疲れたかも、と思いつつも、カスバからの帰り、シェラトンから近いマディナのお家へお邪魔する。彼女の妹の結婚式のビデオをつけてくれる。面白いのだけれど今の私には少し辛い(疲れで)。今日だって今から帰ってお仕事が・・・。でもここは頑張って一生懸命おだてる私(本当にきれいだしビデオの質も良く、エンターテイメントも最高)。今日はぎりぎりにホテルに戻ることになるだろうな、と時計を見ると午後7時。

が、そこからが集中どころ。以前シェラトンで踊っていたウクライナ人(と聞いています)のジュリアナ(ちなみに彼女は私と同じエージェンシーではないようです)が、1年間シェラトンにいたことも聞いていたし、契約が終了してからその1年後、マディナの妹の結婚式の為にわざわざ来てくれたということだって聞いていた話。契約期間はその人の実力に比例するわけでも何でもありませんが、そのビデオの彼女の踊りを見て、納得。素直に、もっと見たい、と。

こういう職業についていると、多少なりともライバル心というものは捨てきれない部分があるとは思うところ。その上私はお世辞を言わない。でも本当に感動した踊りを見たらそう表現するし、素晴らしいダンスをする人は、ためらわずお手本にする。幸い私の周りには素晴らしいダンスをするダンサーが山といてお互いに刺激を与えられる環境にいるとは思っていても、お互い各国で踊っていればその人たちを生で見る機会は中々ないもの。
正直この頃、少しどうにかしたいな、と思っていたそんな時に受けたとても良い刺激。あなたのこと知らないけど、ジュリアナ、今日はありがとう。結局ホテルに戻ったのは8時PM。いつものルーティーンの工程はいくつもはしょらざるを得なかったけれど、今日の収穫は、とてつもなく大きかった!と思われる。

カスバの女。

カスバの女たち。

カスバに行った女。

いや、今日は カスバに行った女たち。


マディナ母。ザッハ!xxx